「どうぞ」の一言が言えなかった。電車で動けなかった私に残った後悔

トラブル

仕事帰りの電車で、目の前に立っていた体調の悪そうな女性。

「席を譲ったほうがいい」

そう思っていたのに、私はすぐに立ち上がることができませんでした。

ほんの数秒の迷いだったはずなのに、別の男性が席を譲った瞬間、胸の奥に重たい後悔が残ったのです。

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残業帰りの電車で座れた私

その日は、朝から仕事がうまくいかない一日でした。

提出した資料には修正が入り、予定していた作業も終わらず、会社を出たのは午後8時を過ぎたころ。
駅に着いた時には、足が重く感じるほど疲れていました。

それでも、乗り込んだ電車は思っていたほど混んでおらず、運よく座席に座ることができました。

「今日は少しだけ楽に帰れそうだ」

そう思いながら、私はスマートフォンを眺めていました。

目の前に立った女性

電車が次の駅に到着すると、一人の女性が乗ってきました。

年齢は私と同じくらいに見えました。
薄い色の上着を着て、大きなバッグを肩に掛けています。

ところが、その女性はつり革につかまったまま、どこか苦しそうにうつむいていました。

顔色は白く、額には汗がにじんでいます。

電車が揺れるたびに足元がふらつき、つり革を握る手にも力が入っているように見えました。

「大丈夫かな」

私はスマートフォンから目を離し、女性の様子を見ました。
明らかに、ただ疲れているだけには見えません。

そして、すぐに思いました。

「席を譲ったほうがいいよな……」

頭では分かっていたのに

立ち上がって、「どうぞ」と声をかける。

それだけのことです。

しかし、私は動けませんでした。

もしかすると、体調が悪いのではなく、暑いだけかもしれない。

突然声をかけたら、かえって驚かせてしまうかもしれない。

「大丈夫です」と断られたら、少し気まずいかもしれない。

そんな考えが次々と浮かんできます。

席を譲る理由を探すのではなく、席を譲らなくてもいい理由を探している。

自分でも、そのことには気づいていました。

それでも私は、座席から腰を浮かせることができませんでした。

「どうぞ」と立ち上がった男性

その時、少し離れた場所に座っていた男性が立ち上がりました。

私よりも年上に見える、スーツ姿の男性でした。

男性は女性の近くまで歩いていくと、自分が座っていた席を手で示しました。

「よかったら、どうぞ」

女性は一瞬驚いた表情を見せたあと、小さく頭を下げました。

「すみません。ありがとうございます」

女性はゆっくりと席に座り、背もたれに体を預けました。
座った直後、安心したように大きく息を吐いています。

その姿を見て、私はほっとしました。

倒れてしまう前に座れてよかった。

本当にそう思いました。

しかし、それと同時に、胸の奥に何とも言えない苦しさが残りました。

私も気づいていたのに

男性は、女性の様子に誰よりも早く気づいたわけではありません。

私も気づいていました。

席を譲るべきだとも思っていました。
それなのに、実際に行動したのは別の人でした。

「自分が先に立てばよかった」

そう思っても、もう遅いのです。

女性に席を譲った男性は、何事もなかったようにつり革につかまっていました。
特別なことをしたという表情でもありません。

だからこそ、その姿が余計にまぶしく見えました。

一方の私は、座席に座ったまま、スマートフォンを見ているふりをしていました。

画面の内容は、ほとんど頭に入ってきませんでした。

帰宅しても消えなかった後悔

家に帰ってからも、電車での出来事が何度も頭に浮かびました。

席を譲らなかったことを、誰かに責められたわけではありません。
女性も、私のことなど覚えていないでしょう。

それでも、自分だけは知っています。

困っている人に気づきながら、失敗することや気まずくなることを恐れて動かなかったことを。

「断られたとしても、声をかければよかった」

「勘違いだったとしても、立てばよかった」

何度考えても、答えは同じでした。

次は迷う前に動こうと思った

数日後、再び仕事帰りの電車に乗った時のことです。

私は座席に座っていました。
途中の駅から、小さな子どもを抱いた父親が乗ってきました。

父親は片手で子どもを支え、もう片方の手で大きな荷物を持っています。

以前の私なら、また少し迷っていたかもしれません。

けれど、その日は考えるより先に立ち上がりました。

「こちら、どうぞ」

父親は驚いたあと、「ありがとうございます」と笑ってくれました。

席を譲ったからといって、以前の後悔がすべて消えたわけではありません。

それでも、あの日動けなかった経験があったからこそ、今度は動けたのだと思います。

気づいてから動くまでの数秒

人に親切にしたいと思っていても、実際に行動する時には勇気が必要です。

断られるかもしれない。

余計なお世話だと思われるかもしれない。

周りから注目されるのが恥ずかしい。

そう考えているうちに、行動する機会は過ぎてしまいます。

けれど、声をかけなかった後悔は、想像していた気まずさよりも長く残ることがあります。

あの日の私は、席を譲った男性の「どうぞ」という一言に、自分ができなかった行動を見せられました。

次に同じような場面に出会った時は、完璧な言葉を探すのではなく、まず立ち上がりたいと思っています。

困っている人のためだけではなく、あとで自分自身に失望しないためにも。

※本記事は、日常で起こり得る出来事をもとに構成した創作エピソードです。

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